昭和五十六年三月二十四日 朝の御理解


御理解第九十一節 「元をとって道を開く者はあられぬ行もするけれども、後々の者はそういう行をせんでもみやすうおかげを受けさせる」


 あられぬ行でもせずにはおられん思いで、あられぬ行をして神様に近付こうとされた先輩または先覚または教祖様は、そのあられぬ行から何を得られたであろうか、神様の生きた働きを、まあ感じ取られたことであろうとこう思います。
 段々教祖様の場合などは、いわゆる今日の合楽理念の元でもあります、心行、家業の行。「此方の行は火や水の行ではない」と喝破される。勿論、家業、心行とこう言っておられますけれども、それはもう本当は心行一つだと。心行を以て家業をしたら、そのまま家業は行。
 業というのは何何業という業ですけれども。今私が言っているのはぎょうにんべんの行です。業(ごう)ですね。業が行になると言うのです。業という字は「ぎょう」と読むでしょう。業(ごう)ということは難儀の元と言われております。「あの人は業が深い」とこう言う。その業がね、行になる。言わば神様が受けて下さる修行になる。だからそれは心行なんです。だから心行即家業の行と言うことになります。だから心行に本気で取り組ませてもらう。言うならば、一つ一から十までをです。すべてを合楽理念に基づく生き方が出来てこなけりゃあならんということになりましょう。合楽の皆さんの場合は。
 これはあのお道の教師の場合、まあ言うならばあられぬ行をして人が助かるようにもなったんですけれども、これを各々の場合に頂くと、本当に、初代・先代、言うなら金光教の信心を始めて下さったお祖父さんとか、お祖母さんが、それこそあられもないような行をなさって、今日何何家の信心があるんだと、その信心が、ならみやすう子や孫に伝わって行くことのためにも、またみやすうおかげの受けられることのためにも、私共は、この、言うなら業を行にしておかねばいけないということ。
 家の、例えばめぐりならめぐりをお徳に化しとかならん。変えておかねばならん。そういう私共は、そういう責任がある。またそこからおかげが受けられるという確信をもって、だから子にも孫にも信心、金光様の信心を頂くなら、ここだけは大切にしなければいけないよと。これだけは守らなければならいけないよと。みやすう守られ行じられる信心を残しておかなければならん。
 業を行にして行くと同時にです。得てして目に見えるものは大切にするけれども、目に見えないことやら、目に見えないものを疎か粗末にすると。こんなことでは金光様の信心にはもとるぞといったようなことを、もうちゃんと言うて聞かせとかんならん。それがね、もう言い伝えられるというか、もうその家の家風ともなってしまうようなおかげを頂くためには、こちら自身がおかげ頂いとかにゃ譲るにも譲れません。
 私はもう昨日のあの霊祭を奉仕させて頂いて、皆さんにも聞いて頂いたお話ですけれども。鞍手のあの前田さんのお話させて頂いたんです。丁度二十一日の日に、自分のお里の御霊様達を、自分のお祖父さんお祖母さんの御霊達をはじめ、関わりの御霊も一緒に合楽にご縁を頂きたいというので、御取次お願いに見えておられる。
 そしたら、その翌日、二十一日の朝、昨日一昨日お電話頂いて、今朝から不思議なお夢を頂いた。お祖父さんがお百姓をしておられる。それはもうしるしそうに、寒いその冬の田圃に出ておられるというのである。そして今度は次の場面が変わったら、親先生がお入りになっておられるあの檜風呂のような、あれと同じように畳一枚もあろうかと思われるような大きな檜風呂にゆったりと入って、それこそ心地よさそうに、まあ口で言うなら「ああ極楽」と言わんばかりの様子を頂かれた。
 しかも、天井から、あの柿色の、合楽の色と言われるですね。この色は合楽の色と言います。合楽は総てこの色で出来ておるわけで、合楽の色。その合楽の色と言われるタオルがすうっと浴槽の中に下りてくるところを頂いた。
 これを例えば聞いただけでです。本当に何か身震いが出るような神様の働き。合楽理念のすさまじさ。目に見えるところだけれども、のおかげもじゃけれども、目に見えないところにそういう働きを見せて下さるということ。感じさせて下さるということ。素晴らしいことだなあと。
 勿論、例えば御霊達がこれから、御霊の言うなら合楽理念を、御霊ながらに学ぶでしょう。身に付けて行くでしょう。そして例えそれはお百姓しとっても、どんなに寒天の時であっても、それを御用として本気でそれに、修行に取り組むことでしょう。
 例というならばですよ。霊様が百姓しなさるというようなことはないですけれども、それは霊様のあちらでの働きの、まあ私共に分かるような表現なんですね。
 例えば、百姓の御用を頂いておられてもです。合楽理念を以てしたら、それこそ鍬鎌一つでも拝む心が生まれてくるだろう。それこそ一生懸命に御用するならば、それこそ冬でも、それこそポッポッするように暖かい状態になれるだろう。心一つである。
 そういう働きに御霊様が変わって行かれて、しかもなら、合楽の世界の有難い、勿体ない、言うならば私共お風呂に入って感じるような心の状態を御霊様が開いて、これはまた限りなく御霊の位も、御霊の信心も進んで行くことであろう。喜びの御霊として精進して行くことであろうというお話でしたよね昨日のお話。その通りのお夢を頂いておられたんです。
 それをなら、私が申しますように、最近あちらでは本当に、そりゃあもう本当にびっくりするような事件が起こったんです。もう本当に目の前が真っ暗になるような、一家中で。
 ところが合楽で、ここを合楽理念で頂いたらどう頂くかという時に、はっきり答が出てきた。そのことを話された信心のない子供さんやら、ご主人やらまでも安心されるようなおかげになってきた。もうそれこそ、これでもかこれでもかというような働きが、その後にあったんですけれども。その一の太刀も、二の太刀も三の太刀も受けとめて行けれるだろうと言うような構えが出来た。
 そして言うておられることは、「もし私が合楽にご縁を頂いていなくて、合楽理念を知っていなかったら、今度のことのことだけででも、どういうふうに家の運命が変わったか分からん」と言うておられるです。
 だから、合楽理念の実験実証、それを確信する、信ずるというその心がです。なら、自分達だけの助かりじゃない、先祖も助かってもらわんならん。自分の里のお祖父さんお祖母さんたちも助かってもらわんならんというところから、私はそういう働きが起こってきたんだと思う。頼んどきゃよか、拝んどきゃよかといったようなものじゃないでしょうが。
 昨日、一緒に、あの人は何と言っとかね。あのいつも卵のお供えをなさる方。西分会の参ってくるたんびに卵ですね、いわゆるご先祖のお父さんとかお母さんの帰幽日帰幽日に参ってくるんです。そして、毛利さん。それがね、合楽で合楽の話を聞いて、合楽理念に基づいたところが、商売がもう一遍にというふうに、こげんおかげ頂いてよかじゃあろうかというごたる状態に変わってきたんです。 そこで合楽理念の間違いないことが分かって、御霊様の合楽理念による御霊のことを聞かせて頂いたら、合楽で言うならば助けてもらう以外にはない。目には見えないけども、ご先祖の助かり、そこに言わば月の内に何回か御霊の霊祭の時に、必ず玉串料のお供えをして玉串を上げて帰られる。目に見えないところを本気で、それ信じて実験して行かれるわけです。
 だから、まあそういうお仕事の上にもおかげを頂いておられるわけですけれども。言うならば、あられぬ行もするというような、なら本気で合楽理念に基づく、合楽理念を自分のものにしてしまうまでに、さまざまな所も通らせてもらうでしょうけれども、言うなら合楽理念に基づくその真の生き方。合楽理念そのままが真だ。それを行なうことが真心で行なうことであるから、真のおかげにつながるんだということを教えておる。
 これは二十一日が親教会の霊祭ですから、まあ昔から私の方では甘菜辛菜のお供えをさせて頂くんです。ところが、この頃私の方の霊祭の時お供えに頂いたパンがとっても美味しかったです。「どこんパンじゃったじゃろうか」ち聞いたら、「追分」。「そりゃあ本当に十円二十円高かったっちゃこんパンがよかばい」ち私は言うて、それからもう前々日から電話で注文して、それから、今までは善導寺の町でもう頼んどいて、そして行きがけに持って行くという具合じゃったです。ところがね、そのパンが美味しかったから、わざわざ追分まで朝の内に取りにやらせました。で、それをお供えさせて頂いたが、私が、あん、「あそこんとが美味しかったけん、あそこんとがよかばい」ち言うた途端に、パチッとおいさみ頂きましたよ。この神様はそんな神様なんです。
 「まあとにかく、お饅頭ばせり箱一段お供えしよるけん、どこんとでん安かつがよか」ち言うごたる人もありますよ中には。それこそ美味しかったなら、美味しかったら五円十円高かってもそこんとがよかばい。しかもわざわざ遠いところまで取りに行ってからでも。その心が信心なんです。合楽理念ではそれを説くのです。
 だから、合楽理念は真だと言われるのです。神様に通う。または神様を信じて疑わない。言うならば、親先生の言われることを、はあそうかと本当に頂いたら、その御霊様なら御霊様をその月々に大切にする。その在り方というものが、そういうものを身に付けておくということ。それが子にも孫にも伝えて初めて、後々の者はみやすうおかげが受けられるということになるのじゃないでしょうか。 これはあられぬ行。ここでは言うなら火や水の行というような行がないですから、業が行になるような行をさしてもらわなきゃ出来ん。そこにはもう家業が間違いなく行として受けて下さるです。それを言うなら心行である。それを合楽理念では、それを色々な角度から説くわけ。
 参っとります。お願いしとります。もう何年続けて参っとりますだけでは、私は子に孫に伝わらないと思います。子や孫もみやすうおかげを受けることは出来ないと思う。そういう生き方在り方、言うならば、合楽理念による助かりなら目に見えない御霊の世界の御霊達も助かるということは、私共自身がそれを信じて確信するからこそ、御霊達につながって行くのです。
 もう成程この世でも、合楽理念を以てする他ないのだから、御霊達もやっぱり合楽理念に基づいて助けて頂くというところに、そういうまあ言うなら働きが起こってくるんじゃないだろうかと思うですよね。
 ただその合楽理念は、御取次を頂いて、まあそりゃあそれだけでも違うでしょうけれども、こりゃあ御霊の世界、目に見えない世界だけのことじゃありません。目に見える現実の世界においても、おかげの世界においてもです。やはりそこんところの確信。言うなら傾倒。合楽理念に傾倒する。それがいよいよ身に付いて行くことを私は、まあここではあられぬ行ということになるのじゃないかと思う。
 言うならば、行が、業が行になるという程しの行ですから、やっぱり本気でそれに取り組んどかねば出来ないということ。それをなら、後々の者がみやすうおかげの受けられる基礎というものを、言うなら私共一人一人が今、合楽理念に基づく稽古をしておかなければならんと言うふうに思うです。
どうぞ。